もやすみなさい ―研究の1日の終わりに

火炎、着火して伝播するものに興味があります

無題

今日もはるかと一緒にいて、その間少し暇な時間が出ているのではるかの前にいるけれどタイピングをしてみようと思う。あんまり指の滑りは良くなくて、今日受けた刺激というか直射日光の中でそれなりに歩いた時間があったので、そのために体の芯の骨のところに疲労が乗っかっている気もする。こんなときにはさっさと銭湯に行って、サウナと水風呂を2周くらいして力尽きて眠るのが一番いいことはわかっているけれど、夜にホタルを見に行くと約束したこともありここに縛られているというのはたしかにそうではある。はるかはうーんと言いながらフォルダの中身を漁っているみたいではある。僕の方は火曜日のことだけを少し気がかりに思いながらも、はるかに借りているMac Book Airに適合することを楽しんだり、ケーブルとか変換端子を購入して手元の環境でVJできるようにすることを面白がろうとしているのはたしかにそうではある。問題があるとしたらTouchDesignerのライセンスがどうなるかとか、Resolumeのライセンスってこっちに移せるんだったっけということを思っている。火曜日に向けていくつかのことを手を動かしながら、それなりに何かをやることをやっておいたらそれでいい。いくつかの問題はあるけれど、それは現場で解決しておいたらそれで構わないのだろうと思うけれどどうなんだろうか。ケーキとアイスを食べたい気持ちになってきているけれど、それは少し我慢することにしよう。体の節々が傷んでいる。これがコロナだったら遥かに申し訳ないという気分にもなりながら、まあどうにかなるだろうという気分ではある。今日朝起きる時間は少し早かった。その分睡眠が微妙だったのも確かで、眠ったときの姿勢が悪かったみたいで首のあたりが結構傷んでいる。そういえば、VALLINKの設定もしないと研究室に行ったときに優先LANにうまく繋げないのも確かだろう。まあそれも明日の昼過ぎに現場に行ったら解決される問題ではあるし、DJやその他の人員の確保についても、今夜に連絡をとって明日の授業中に行っておけばいい。今夜に派手にのみ歩かない限りはどうとでもなるんだと思う。今日の昼には兵庫県立美術館でミニマル・コンセプチュアルアートの展示会に行ってきたが、お客さんもさほどおらず、ゆっくりと作品を見て回ることができてとても良かった。解説がたくさん配置されていてその意味合いはだいたい掴むことができていたし、武田先生の話を裏打ちする形でいくつかの話を受容できたことはとても良かった。アメリカのアートマーケットに関する批評が、グリーンバーグを中心になされていたというのはたしかにそうで、展覧会の画集の中にもそのことがひしひしと伝わってきた。抽象芸術主義とミニマル・アートに至る過程というのはあんまりわかっていないことが多かったけれど、その間の区別がきちんとできるようになったことは良かったんだと思う。作品を見ながらいくつか考えたことがあった気がしたけれどだいたい忘れてしまった。面白かったのは、ミニマルアートの革新性というのは作る人の手腕の影響をできるだけ排除したという理念だけを受け取っていたけれど、キュレーターとアーティストにとってはその展示の準備の仕方における革新であったということも面白い。職人の手業から離れて工業製品を使用するようになったことで、アメリカの作家が仕様書を文通でやり取りするだけでその展示ができるようになるという、恐ろしく経済的なことが行われたということも面白い。それだけだと競争力にはならないけれど、思想的な部分がきちんと打ち立てることができたのでそれがアートの運動として成立したことも面白い。もちろん時代背景としてベルリンの壁のことや学生運動のことなどの影響あっての、共産主義スターリン批判と呼応して起こった、ある時代の現象であったということは否定できない。アートの自由度が高まって、プレイヤーがあまりにも多くなってしまった現代において、金属の板を格子状に並べてアートですと言って展示したところで誰の注目も集めることはできないだろう。それが受け入れられると予測してきちんと当てることのできた作家たちに対する驚きはすごいものだ。そのミニマルな金属の質感も含めて、現実に目の前にするとかっこいいと思ってしまったのは否定することもできない。絵画的な美、彫刻的な美から完全に離れてしまうことなしに、その理念を研ぎ澄ませることができているのは面白かった。そこから、見てわかる美についての評価から、抽象的なアイディアの美しさに力点が写っていったことはうなずける。ミニマルアートによって、職人的な技能を必要とせずとも工業製品を用いて作品を当てることができるということが知らしめられたので、それならばと言って多くの人が概念を用いて遊ぶことにしたのは正しいことだったんだろう。おそらくコンセプチュアル・アートの中にも死屍累々だっただろうが、その中で生き延びたのが草むらをあるき続けて直線を作るだとか、木の枝を並べて空間を作るとかそんなことだったりしたのも不思議なことだ。まあ、作品の善し悪しだけで評価は決まるものではない。その周辺のコミュニケーション能力とか根回し力とか事務処理能力とか、総力戦を通して決まってくるのは普通のことであるので、芸術批評の中で考えられている理論ですべてを言い表すことなんてできないんだろうと思う。あとなにか思ったんだったっけ。一人の人がやっていた、台形が見る市によっては正方形に見えるだとか、少し歪んだ部屋に枝をちょくせんにならべることで空間の歪みを作るという手法が面白かった。コレクション展も見たけれど、顔にぐるぐると書いてある彫刻とか結構面白かったが、そんなに頭を使うネタではなかったので速歩きで流してしまった。兵庫県立美術館に以前に行ったときは、怖い絵というベストセラーをもとにした展示をしていて、常に行列になっていたようなところだったけれど、今回の展示は丁度いいレベルの人口密度だったのでちょうど夏のような陽気の今日みたいな日にはありがたかった。お金になる展示かと言われたら全くそんなことないだろうし、理解するのにある程度の教養を必要とするものでもあるので広く人気になる展示でもなかった。それでも特別展としてとんでもない高額にすることもなくきちんと展示を行ってくれるのは、学芸員の人の気合を感じて嬉しくなる。京セラ美術館には見習ってほしいと思うものの、名前を株式会社に売ってしまうようなところでは無理だろうなということも同時に感じてしまった。大阪の大学時代に、家の近くに美術館があったらどれだけ良かっただろうかということを思う。殆どの大学は近くに美術館がないままなんだろうと思う。今から次の学会で東京に行くことが楽しみではある。どれだけの美術館を回れるだろうか。西洋美術館には行くだろうし、現代美術館にも行くだろう。セッションもそれなりにサボりながら、午前中に美術館を見て、夕方にシンポジウムの会場に行き、夜は友人とクラブに行くという暮らしをしたいものだ。いくつかのおじさんたちの集まりには目もくれずに、好きなことをひたすらやって暮らしていたいと思ったりするがどうなんだろうか。まあどうにかなるだろう。彼らの考えていることなんてとてもちっぽけなままであって、そこからどんな気血も起こるものではない。