もやすみなさい ―研究の1日の終わりに

火炎、着火して伝播するものに興味があります

無題

寝不足だった昨日一日を髭と一緒に過ごして,その時間は悪くなかったのでよかった.会話の節々に理解の違いに基づく違和感もあったけれど,それでも全面的な衝突に至ることは無くてぬるっと回避しながら,共通の興味であるとか前提知識をもとにした話ができて楽ではあった.楽であるというのは重要なことだ.そして久しぶりに10時に床についてその後には7時に起きるというとても健康的な一日の始まりになってしまった.むしろ早く起きすぎて何をしたらいいのかわからない気配すら存在している.起きる時にベッドの中では,なぜか今日が月曜日であるような気がしていて,論文の査読を対応しないといけないという気分になったりしていたが,それもまたいいのだろう.それに加えてサークルの新歓に関するいろいろで煮詰まっていない箇所が多いのでそのことについて進めないといけないと思って結構大変に思ったりしている.DJはエンリケだけが捕まって他の人が見つからないので厄介なものだなあ.ナガフチ君はDJを探してくれていたらしいけれど,全然やる気も見えないしそういうものなんだろうと思ったりする.まあそれはどうでもいいんだろうか.自分のことをある程度期待される必要があるのかもしれないし,そうでもないのかもしれない.とはいえ,自分でDJを最低限出来た方がお得な気がするので,音楽をつなぐくらいのことはできるようになっておいた方がいいのではないかと思ったりもする.適当にやってみようかと思ったりするが,発達障害的な動き方を人から見られすぎるのもだるいと思ったりするし,まあそれはそれでいいかと思ったりもする.クラブでお酒を飲んでいると自分がいかに「ガイジ」であるかという事でマウントを取ろうとしてしまうところもあるが,それは良くないことかもしれないしそうでもないかもしれない.わからないが別にどうでもいいことなんではないかと思うが知らない.あとのいくつかのことについて悩んでいたような気もするし,春香との関係も微妙な気配が漂っている.一気に燃え上がって一気に鎮火してしまうような気がするけれど,それは回避したいと思ったりする.自分の周囲にいくつかの女性がいるせいで,一つの恋愛に執着しないようなスタンスになってしまっているのが恐ろしい.何か不満があるなら他の男を選んでくださいというような投げやりな態度になってしまう事で交渉を使用とするときがあって,それがあるところで見放されて振られるのがいつものパターンではないんだろうか.望ましいのはそれをあんまり使わずに,きちんと言語を使ってすり合わせていくことではあると思うんだけれどそれは可能であるんだろうか.今日の13時から出会う時にどんなふうになるのかにかかっているけれど,まあ,外で会っているときにはプハで会っているときよりは他人行儀である気もするし,そんなに悲しむこともないのだろうと思ったりするがどうなんだろうか.わからない.少し歯車が噛み違えるとすべてが否定されているような気がしてしまうが,本当はそんなことはまるでない.基本的には愛されているという事をきちんと認識することが必要であるがそれが上手くできずに敵対関係に移行してしまうとどのようにしたらいいのかわからない.うーん.今はちょっとふざけられるのかどうかわかっていないという事が正しいんだろう.メッセージが返ってこないことであるとかいくつかの記号によって相手のことを懐疑する状態が続いているので,そのためにあんまり関係を結ぶことができない状態が続いているらしい.それで最近の僕は太ってまともな顔をしていない気がするので,この後どうなるのかはわからない.やせた方がいい気がしているけれどそれもしばらくは難しそうな気がしている.おいしいものをたくさん食べてしまっているので,それも難しいみたいだなあ.知らんけれど.それで何だったっけ.明日についてはどうとでもなる.この午前中にはひたすら本を読んで過ごすことにしようか.この前のメトロでいくつかの人と話した時から頭の中がその人たちとつながっているのが大変厄介ではある.SNSの中のいくつかの人に対して現実の中と同じように親近感を感じてしまっているし,そのまま出会うのだろうという事を感じている.いくつかの会いたい人と会いに行くことにすることにしようと思ったりしているし,そうでもなかったりしている.わからないけれどそういう事なのかもしれない.それで何だったっけ.まあどうとでもなることはわかっているけれど悩んでいることなんてあったんだったっけ.本を読むことはそれなりに続いていて,マルクーゼだったっけ.の一次元的人間を読んでいるが雰囲気はカッコよくてそれを楽しんでいるだけでうれしくなってしまう.フランクフルト学派の人たちが書いた文章は教義的で論理を追う事を許してくれるものではないけれど,それがとてもかっこよく感じてしまう.マルクーゼ,ハーバーマスアルチュセールあたりの文章は,たとえ翻訳が行われていたとしてもやはりきれきれの内容になっていて,マルクスの影響と精神分析の切れ味が組み合わされるとこんな風になるのかと思ったりもしている.いわゆる心理学という風に学問になっているものと,精神分析からスタートした書物群は全く違っていて,前者が毒気を取り除いて医療従事者であるとかを量産するためのものであるのに対して,後者は現実の問題を解くためにあらゆる領域の知識を使おうとしているところに面白さがある.それはやっぱり現代的な知識が縦割りで相互に結び付かない様に仕組まれていることにもあるんだろう.ある分野,例えば理論物理だったり機械工学だったり人類学だったりの知識というのが,その分野を超えて応用できる状態にたどり着くことが難しい状況が続いている.それはやはりテストという形でよく定義された問題を解いているとそうなってくるし,さらには研究という活動だってアウトプットの場が物理学会であるとか機械学会とか,あるドメインの専門家に向けた場所であり使われている言語が異なっているという事も大きいのではないかと思ったりもするのだ.会社の中に入ったら少しはましにもなるのではないかと思ったりもするが,しかし分業のせいで自分の仕事の範疇を超えて知識をつけてしまうとむしろ仕事が増えてしまうという不利益を被ってしまうのでそのように領域横断的に知識を身に着けようという態度を身に着けることは難しいようだ.不思議なことは多くの人々が自分のドメインの知識を吸収して専門家になることについては勤勉であることに対して,あらゆる分野の知識を収集することへのモチベーションがあんまり見られないことである.一つのことをよく知っていることが自分の身を助けるという専門主義みたいなものが暗黙に共有されているのは確かにそうみたいだ.僕の様に何でも知りたいと思ったり,ドメイン外の本を読んでいる方が楽であるという人々はとても少数派ではあるらしくって,その特性を保存したままであらゆる分野を渡り歩きたいと思ったりもしている.30歳になるまでは専門性はなるべく身に着けないようにしたい気がしている.30歳になったらどこかに上り始めるのかもしれないけれどそれが大学教員の道であるのか,何らかの会社を興す道であるのか,それとも自然に帰ろうという動きであるのかはわからない.できるならばそれらを衝突させたうえで第4の道を作り出すことが理想であるが,それがいったいなんであるのかはわからないままだ.坂口恭平のようにアクロバティックな形で文章を世に出し続けるのも悪くないと思ったりするが,それができるかどうかはわからない.とはいえ自分には本にアクセスする能力が必要ではあり続けるので本がある場所に住み続けることだけを大事にすることにしよう.その意味では国会図書館のある東京に移り住むことも悪いことではないし,後は京都市に住んでいるのもコストが安くて悪くない.北摂でもいいけれど北摂はあんまりローカルなつながりに入っていくことが難しいんだよなと思ってもやもやしたりする.ローカルなつながりがきちんと作られるためには,就職をせずに反失業者みたいになっている卒業生たちのコミュニティが存在していることであるとか,適度に猥雑な住環境を提供する不動産であるとかいくつかの条件が必要であるみたいだ.その点で京都は大阪にないものがたくさんあるみたいだし面白い.いや,僕のやるべきことはそういう事なんだろうと思ったりもする.大学周辺に反失業的知識人を増やしていくことをどうにかやっていったらいい気もしていて,そのためには住環境をいじくったらいいんだろうか.ここでシェアハウスを作りたいという昔持っていた関心が帰ってきているけれどそれはそれで面白いのかもしれない.反失業的知識人をたくさん集めるためのシェアハウス.それはむしろ大学教員が孤立している現状とも対応しているのかもしれない.大学教員向けのシェアハウスを作ったら面白いと思ったりする.知識への欲求を満たしていくような形で不動産を作ることとかそんなことだろうか.知識人を集めているという事を売りにしたら楽しそうだ.博士号を持っている人間しか入れないシェアハウスとかくるっていて楽しそうではある.どうなんだろう.結果的にそうなるのかもしれないが博士号を持っている人間が集まったら嫌な気分になりそうな気もしているし,そうでもないのかもしれない.昨日はシャワーを浴びずに眠ったので髪はごわついているままでもある.そして何だったっけ.明日はどんなことが起こるんだろうか.まあわからないままではあるしそれはそれでいいんだろうと思ったりもする.そして何だったんだろうか.果たして春香との関係は今日で終わるんだろうかという不安もありながら,二度寝ができるんだろうかという問題も存在している.頭の中はやはりもやがかかっていて,なにかしらのやりたいことが存在しているのかどうかはわからない.昨日話したのはやりたいことは個人の中には存在していなくって,間主観的に,コミュニケーションの中で生まれてくるものであるという事を話したような気がする.大体そういう事なんだろう.やりたいという事を思うためにはそれが実現可能であるという事を信じていないといけないわけで,一人では信じるという事はとても難しい.一人でいるとネガティブな方向に考えが進んでしまうので,何かしらやりたいような気がすることが存在していたとしても,それを直視すると実現可能性が全然出てこなかったりする.ただ,それを人に話して棚卸してしまうと自分の中のやりたさは軽減してしまう代わりに,相手のリアクションでどれくらい変わってくるかが理解できる.そのリアクションが好ましいモノであったならば実現可能性があがってやりたい気持ちが増幅するし,渋い反応が返ってきて自分のやる気がなくなったとしても,後日相手の方がやる気になってそれを持ち掛けてきたときにやる気が再燃することがあったりする.そんな風にコミュニケーションを通して実現可能性をあげていくプロセスがあって初めてやる気が生まれてくるのではないかと思ったりする.おそらくそういう事だろう.やりたいことという言葉の中には,興味のあることと実現できそうなことの重なった部分に存在していて,興味のあることについては一人でもそれなりにまとまった大きさを持っていたりするけれど実現可能であることについては一人でいるととてもしぼんでしまっている.それを大きくしていくための方法がコミュニケーションであって,しかも普通のコミュニケーションをしている限りでは大きくも小さくもならないのである種のテクニックが必要であるみたいだ.僕は行っているのはそこら辺の実現可能性を見定めようとすることではあるし,時折それを最大化するためにコミュニケーションを使って動かしたりしているのは楽しかったりしている.なんにせよボールを相手に渡してしまう事は大事なことで,すべてを自分で抱え込んでしまわないことを大事にしておいたらそれでいいみたいだ.ひげはガントチャートを導入して厳密に管理しようとしているらしいけれど,それは全くお勧めしないのでお互いの健康のためにやめた方がいいと思うんだけれどどうなんだろうか.