もやすみなさい ―研究の1日の終わりに

火炎、着火して伝播するものに興味があります

無題

今日は暑い日で,シャツを着て出かけようかと思ったけれど,ちょっと考えなおしてポロシャツを着て出かけることにした.自転車に乗って登校しているときには風が冷たくて気持ちいくらいの温度感覚だったけれども,研究室に到着してしまうと部屋の日当たりがいいから温度が高い.ついてすぐに窓を開けて空気を入れ替えたけれども,まだ暑くって,コーヒーをホットで淹れてしまったからさらに熱いものを飲んで汗ばんでくる状態だったりする.同部屋の学生にこの前布教したさいよしこの音楽が流れていて,よくわからない温度感の部屋になっているな.来た時には熱々の中で往年のディスコの名盤が流れていたのでそれよりは少しマシか.外では風に木がそよぐ音がここちいい.寮を出発するときには厚生課の職員が来るということで放送が鳴りっぱなしだったけれど,ちょうど正門を出る時にマスク姿の学生たちに取り囲まれたスーツの場違いな青年がどこかへ電話をかけているのを観測した.まったく,自分は絶対にやりたくないブラック職場だ.ひどい言い方をすれば生活保護の窓口のように大学職員に思われているのではないだろうか.さいよしこのBGMもいい感じに盛り上がってきた.お尻が厚い.パソコンのファンが回り始める.ノートパソコンのスタンドを購入したいと思い始めたところだった.昨日から映像づくりが少しやる気が出始めているような気がしていて,GLSLとNoiseとの連携について少しづつスコープが広がってきているような気がしている.GLSLで描くパーティクルについては割とブルーオーシャンなんじゃないかと思う.ラカン右派やフロイト右派はブルーオーシャンだと松本卓也が言っていたことを思い出した.面白いのは本人は別に左に寄っているわけではなくって保守的だったりしていたらしいのに,その精神分析の理論だけ引っ張ってきて左派のロジックとして使用することができるという事であったりする.量子力学の分子スケールの振る舞いが,目に見える反応場を規定していることと同じような,一番根っこのところにある挙動についてのモデル如何によってその世界認識が変わったり,目の前の問題に対する回答が異なってくること近いような気がする.唯物論や観念論の戦いは,予備知識無く考えると全く不毛な言葉遊びとしか映らないけれど,目の前の問題に影響を及ぼすという事を考えると全然意義がある.ただし,放っておくと私たちは,その根っこの前提が変化しない不動のものだと思ってしまっていて,根っこの議論とその帰結が脳のネットワークの中でつながっていないように思う.ヘーゲル左派は不思議で,ポパーの開かれた社会とその敵を読んでいる限りでは,ヘーゲルプロイセンの御用学者でしかも提出した考え方には誤りが多く存在するとるに足らないものだという刷り込みを受けていたので,ヘーゲル左派として未だに強い影響力を持っていることに違和感を持ってしまう.そういえばこの大学の某ヘーゲル学者の方もだいぶ左側の考え方を持っていたように思うので,その点でいうと右派として集団主義的な考え方になっているヘーゲルはもう乗り越えられてしまっているのかもしれない.ノイズのことを用いて左派の理論を組み立てられないかと思ったりもする.やっぱり面白いのは,人文科学の中にたびたび自然科学をやっている人が出てきて,えてして彼らの語りはそんなに洗練されていないし面白くもないのだが,何か考えを提出していることを眺めている事だったりする.ノイズの理論について考えたら,どうにか人文科学に突っ込むことができないだろうか.基礎理論を政治理論にコンパイルする過程をメタ的に理解して,その方法を目の前の現象に対しておうようできたらいいなと思う.肩が痛くなってきた.さいよしこはまだ生きているのだろうか.Spotifyで得られた収益はどこに行っているのか少し気になる.欲動が自分にとどまっていて,周囲の物事に対してうまく欲動を備給できないことについて,どうしたらよいのかいまだにわかっていない.昔はそんなこともなくて,車とか家とか旅行とか世間一般に求められている者に対してほしいという気持ちをきちんと受け取ることができていたのだけれど,今はそんなことなくって,今欲しいモノしか欲しくない.もともと欲しかったものもなんでほしかったのかわからない.欲しかったもの,DUKE790だったり,Will VSだったり,洋服だったり,いろいろあったような気がする.大学入学当初の洋服や家具を買いそろえていく過程については,大体,人からの目線に対してうまく適合しようという理由でモノを集めていたのはわかる.大学入学してほかの人々がどれくらいのモノを集めているかの感覚が大体わかってきたら,後はそれに合わせて,たまに自分の好きな分野で人よりお金をかけたり個性を発揮したりするものを購買していたらそれでそれなりに楽しかったような気がする.バイクを購入したりしていたのも,周囲の人々の購買意欲とそこからの個性の主張のバランスで,これくらいの値段,これくらいの排気量だったら維持できるという事が大体わかっていたので,それに合わせて自分の個性や好みを反映させたものを購入していればそれで幸せだったのだと思っている.大学に入学して落ち着いてきてからは,何にお金を使うのかで浮足立っていた時期も終わって,何にお金を使わないかに対して集中するようになった.携帯料金をできるだけ節約しようとしたり,家賃をできるだけ安く済ませたり,食費を減らしたり,お金のかかる遊びをしなくなったり,消費からの撤退を通して個性を主張していたようにも思える.消費をしなくなる半面として,研究に打ち込む時間を増加させることで自己認識のバランスをとっていたような気がする.服装や身なりに余計な金銭をつぎ込むのは自分の仕事からの逃避であるというような偏った考え方で,服装に対する興味をどんどん失っていく自分の守っていたような気がする.会社員になったころに再度の変調があって,受け取る金銭が増えたことと,仕事に対して打ち込むことへが難しい状態になったことで自分の消費マインドがだいぶ崩れたような気がしている.あの当時は特に節約しようという意図はなかった気がするが,何にお金を使っていたかというとよくわからない.ほどほどにお酒を飲む機会もあったが,毎日のように酒を飲んでいた人々と比べてればとるに足らない金額しか使っていない.東京にいた恋人と会うために多少使っていたような気がする.思えば当時は毎月のようにどこかへ旅行をしていたような気がする.加えて,趣味というか仕事からの逃避先として熱中していたCFDのためにモニタやらパソコンやらを購入していたのでそこでお金を消費していた.途中で退職が見えてきたときくらいからお金を貯めようというマインドに傾いたのか知らないけれど,そこらへんで出来るだけ金銭を使わない暮らしにシフトしたような気もする.人間関係以外では,必要な出費を除いては何かを購入したような気がしない.少し高価な服やリュックも購入していたようなきがするが,それらも何かしらの理由をつけて必要なことを十分納得させてからではないと購入できなかったような気がする.髪を切るのは1000円カットだったし,自分に対して特別お金をかけるようなマインドは無くなってしまった.退職してからはさらに変調したと思うし,無職の時期は業務スーパーのパスタをひたすら食べていたり,大学院に入学してからは,最底辺の賃貸を借りて,特に私生活での友人を作ることもなく暮らして完全に出費をコントロールできることに喜びを覚えるなどしていた.出費のコントロールの観点からすると,ガソリンや税金などの維持費だけでなく突然事故や故障などで急な出費が必要だったりする車やバイクはほとんど敵といっていいくらいのモノである.そのような理由から,必要であることが証明できず,多大な出費が発生しうるものに対してはあんまりきのりしないのが現状である.女性関係についての影響についてはもはや書くまい.うだうだと書いてきたが欲動が自分にしか向いていないという事からスタートしていたのだった.こうして書いてみると自分への欲動というよりも金銭に対しての欲動のようにすら思えるな.周囲の者に対して欲動を見出していたのが大学1回生のころ,仕事での成果に対して欲動をいだいていたのが大学院時代,そして金銭に対して欲動を覚えるようになったのが現在といったところか.仮に病理が進行していくことによって欲動の対象が内側に戻っていっているのだとしたら,それはつまり,金銭への欲求が最初にあって,その後に自分の成果(もしくはアイデンティティといってもいいかもしれない),そして周囲の物事に対する欲求といった形で移行していったという事だろうか.金銭への欲動はそれほど根源的なものなのだろうか.そんなはずはあるまい.お金がないとか,お金が欲しいとか,お金が増えていくとうれしくなるという事は,何かのメタファーだったり,誤った習慣づけの結果であるはずではないだろうか.ちょうどおなかを満たしたいという欲求が母から愛されたいという要求に変化したように.生理学的な欲求を満たすためには金銭が必要であるという事をこれまでの経験において学習してきたことの結果なのだろうか.とはいえそれは6歳児くらいでお小遣い制度が導入されてからのことだったはずで,そんなに根源的なものだとは思えないのだけれど.とはいえ,生理学的欲求をみたすことをシニフィアンに変換したときに金銭を多く持つことで代替されることはわからないことでもない.しかしながら,そのシニフィアンに従う事のために生理学的欲求を犠牲にするという本末転倒な事態に陥るのはなぜなのだろうか.お金もそうだしテストの点数もそうで,短期的な快楽を犠牲にして象徴的な点数を集めることでより大きな快楽を得られるという図式,もしくはイデオロギーにさらされ続けていること.欲求と要求の倒錯の試みに成功させた人間が今の社会の中で社会的に良いポジションを占めていること,さらにそのイデオロギーを強化してより多くの人々を倒錯させようとしていることについては何とも言えない気持ちになる.金銭の増加に対する要求をどのように処理したらいいのだろうか.社会的に恵まれている高給取りが世の中の物事の消費に対して欲求を抱くことができなくなってきている悲劇に対して,世間が問題視することは多分ない.この倒錯を自分の手で解決する必要があるのだろうけれど,そのためにどうしたらいいのか答えは無い.預金残高をどんどん増やしていって,その金額がある程度増加したら,自分のテストの点数と学位に投資してさらにお金を稼ぐ機会を手に入れようとする.ひたすらそれを繰り返すことによって,この倒錯した患者は自分の要求を拡大させ続ける.生物学的な欲求を無視する事がどんどんうまくなっていき,何か別の生き物のような感受性を持ってしまう.日頃思っていることについて書き散らかしたが,もともと思っていることしか出てこないな.この問題はなかなか根深くて,結局難しいですねと言ってお茶を濁すしか今は打つ手もない.自分の中での結論は出ていて,倒錯した人間は倒錯した世界観から帰ってくることは多分難しいみたいで,倒錯した世界観を少しずつ現実の世界観とすり合わせていくしかないのだと思う.自分の金銭や肩書を集めて強くなることが第一原理になっているのなら,それと社会課題が上手く合致するように目標を設定して他人から愛されるように編み込むしかない.世界を救わなければならないという妄想を抱えているならば,自分の仕事が世界を良くしているのだという妄想をうまく編み込むしかない.その妄想が敗れるまでの間だけは何かに打ち込むことができるのだろうけれど,そうでなくなってしまったときはまた妄想を構築する必要があるっぽい.いったい今の時代に何をすれば世界を救うことができるのだろうか.僕にはよくわからないが,それでも修正主義的な考え方を多少は身に着けながら,自分の仕事は無意味ではないという事を理解しておきたいと思っている.どうかプラトン的な世界は悪くなっていくという考え方と修正主義的な世界はよくなっていくという考え方を脱構築できますように.